おじぎそうでも沢ガニでもいいけど、お世話するならやっぱりネコがイイなぁ。
しょーがないから、こんなネコでも載せとくか。
こんな肌寒い夜はネコと一緒に寝たいなぁ。
Benesseのこどもちゃれんじ、「おじぎそうをそだてよう!」をやってみてる。
特製の容器が良く出来ていて、水をあげすぎないようになっている。4つの種を撒いてちゃんと芽が出たよ。
こんなのを書くのもどうかと思うんだけど、昨日、街で見かけた個人タクシーに
「AWAZON」って書いてあるのをちらっと見て、
「ん?アワゾン?アマゾンじゃなくて?」
と思ったけど、NOZAWA を逆から書いてたのね、と。ま、それだけ。
え〜、Voxチームの皆さんの努力と全世界7おくにん(根拠ナシ。Zokerさんマネ)のVoxerの努力の甲斐もなく、Webby Awardは終わってしまったわけですが。そんなわけでWebby Award受賞者(サイト?)つーのを見てみると、「Cute Overload」つーサイトが気になるわけです。
面白いなぁと思ったのは、ふつーに「で、これは何よ?」って思ったら、「about」とかのLinkをポチッとするじゃないですか?それをプレスの記事でやっちゃってること。これが出来るサイトはそうはないだろうけど、やれるならこのほうがいいかも。
そんな中で(偶然)ポチッとしたワシントンポストの記事がこれ。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/07/01/AR2006070100117.html
ここにあるように「Cute」って単語はすでに日本のモノなわけです。
As a young man, I could not stand cute. Cute was for little girls, Japanese fads and crazy old ladies who dress up their little dogs in red sweaters and Santa hats for Christmas card photos. I saw cute as the refuge of the juvenile, the pathetic and the superficial.
Of course, I was an idiot. Did you see those panda videos?
CUUUUTE!
こういう「抗えないチカラ」というのがビジネスの(というかもっと言うと生活の)原動力なんだろう。日本だと見えないところってこういうとこかも。日本人じゃなくてアメリカ人さんに教えられたような気がする。
でも、
つー表現(Fineの大盛りかよ!)もどうかとおもふ。
読み始めてから、面白いんだけどなかなか進まないと言う本だった。読めば読むほど、この後どうなっちゃうのか、結末がコワイという良い本の見本のような。
作者の名前が耳慣れないんだけど、それはナイジェリア人だから。内容は、金原瑞人さんのあとがきがとっても良くって、
「ファンタジーといえば、ファンタジーだし、ホラーといえホラーだし、幻想小説といえば幻想小説だし、ラテンアメリカのマジックリアリズムの作品だといえば、そうかもしれない。」
というイギリス人とナイジェリア人の間に産まれた8歳の少女、ジェサミーもしくはジェスもしくはジェシーの不思議な体験を書いた小説。親や学校の期待を受けながら、自分でも理解出来ない自分の本質と葛藤する様がとってもよく描写出来ていると思う。
「二度としないね?」パパはきっぱりいった。こまった。このごろはいつも、うん、といわなくちゃいけないことばかりだ。たぶん、もう、いやだっていっていいよね。もうーーー
「うん。しない」ジェスはか細い声でいった。この次、この次は、あたし、いやだっていう。
でも、舞台のひとつがナイジェリアなのでラテンアメリカというのはどうかなぁ>金原さん。
この記事のタイトル通り、読んで思ったのはホラーもファンタジーも、まぁ、なんでもいいんだけど、種明かしなんてのは要らないんだなということ。その文章がもつ強さというかインパクトがあれば、「どうして?」なんてギモンは解決されなくても全然問題無い、というか解決する必要すら無い。ジェサミーは最後にどうなっちゃうのか、ティリティリはどうなっちゃうのか、そんな説明は要らない。金原さんの書いた通り、衝撃のエンディングではあるけど、ある意味、ストーリーとしてはちゃんとオトシマエがついてる。これでOK。
昨日の読売の夕刊から。
Twitterがどうして受けるのか?という点に関してこれを書いている柳下毅一郎さんの文章を引用。
Twitterを見ていてわかるのは、実はみなプライバシーなんでどうでもいいのだということである。プライバシーを守るより、接触を希う衝動がはるかに強いのだ。インターネットに日記サイトが蔓延し、mixiなどのSNSが流行るのも同根だろう。
あぁ、なるほどねぇ。大分前に閃いたコンシューマ向けのマーケティングのコツ、今年は「寂しがりやさんを探せ!」だったんだけど、別に探さなくてもみんな寂しがりやさんだったのね。ちなみに去年のコツは?と聞かれてもそんなものはありません。
kojiさんの記事に触発されてもちっと考えてみた。
Twitterがなんでも良いので思いつくままに(しかもなるべく短く)書くというのに向いているということは判るんだけど、結局自分で読み返して全然楽しくない、面白くないんですな。ホントチラシの裏の買い物メモみたいで。だから続かない。で、逆に「どうすれば楽しめるのか?」を考えてみた。
Twitter俳句:なに書いてもいいんだけど、五七五の俳句形式でないとダメっていうルールを作ってそれだけを書く。
(吉田戦車ですね。「春手錠」イイなぁ。)
........
他にもアイデアが出ると思ったら出なかった。それぐらいなわけでしゅ。Twitterメンゴ。
ハーゲンダッツのアイスも食べ終わったのでまじめな話をちょっとだけ書くと、新しいソフトやらサービスやらを使うという目的だけで楽しめなくなった、というかもう下世話な話ですが、新しいだけじゃ、ボッキすらしないと。実際にその部分だけはもうIT業界でオマンマ食べてるというのは烏滸がましい(ほぉ〜これでオコガマシイと読むんだぁ)ぐらい。でも仕事になると、「これをどうやって売り込もう」とか「こうやったら、イケるんじゃないか?」とかはドンドン思い付くので仕事モードとプライベートでは全然違うということなんだろうな>自分。
ちなみにkojiさんは「オサーンのヒマつぶし」だそうですけど、暇は暇として楽しめる(考え事しながら)という状況なので特につぶす必要が無いんです。自分の感情とか考えをアレコレしてるだけで十分時間が経っちゃう。
これはこれで結構キケンな兆候かも。
なんてことをつらつらと考えてみた。きっと、Voxのようにある程度まとまった内容を書くということを意識してるので、その意識からはずれちゃうTwitterがちょっと居心地悪いんだろう。
それに、「起きた」とか「ハラ減った」とか他の人が読んでて面白いのかなと。かと言ってkojiさんのようにVoxとクロスってのもなんか違うんじゃないかと、自分なりに。面白いとは思うんですけどね。基本、クロスポストってのがキライなんですね、自分。同じ内容が別の場所にっていうところの意味が見いだせない。そうしてる人ってVoxの前に既に自分の場所を持ってる人がほとんどなんでしょうけど、こっちはVoxでブログデビューなのでしょうがない。
なので、やっぱりいつかやったように読書メモってのが今のところ一番しっくりくるけど、毎日毎日、本読めるわけじゃないし。
ま、そのうちなんか使い道もあるだろうということで。とりあえず。
ちなみにhorriさんとfuuriさんがどうしても混ざっちゃうのはパターン認識が弱いせい、かな?
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