前にふと手にとって読み始めたらとても面白かった「ケニアのスラムで高血圧を治さない」の作者、岩田健太郎さんの新しい本、「ためらいのリアル医療倫理」を読んだ。
3.11以降の状況を踏まえ、「医療行為にとっての倫理ってなんだろう?」というのを過去のルールとか学者の言葉を借りずに自分自身に投げつけて考えてみる、というある意味とてもつらい作業の上に成り立ったとしか思えない苦い内容になってる。
でも文体は前の本よりもほんの少し丁寧でそれこそ「ためらってる」かのよう。
生きることと死ぬことっていう医者にとってのごく当たり前の「状況」をじっと見つめて「延命措置は本当に良いことなの?」「中絶はどこからが生命なの?」「クジラの生命と人間の生命は同じ重さなの?」などなどのギモンを題材に「白黒分けがちな考え方が如何に危険か」というのを教えてくれる。
シロウト的に考えれば、製造業とかサービス業に比べて「生きること」と「死んでしまうこと」の結果がハッキリわかってしまう医療の現場だからこそ、生きるも死ぬも善も悪もそんなにはっきり分かれるものじゃない、そこには文脈を、状況を、そして個人を慮る「ためらいがちな配慮と言葉や行動」によって医療は成り立つべきである、という思いが見えてくる。
読んだ後に3.11以降のいろんな所で見聞きする言葉を思い出して、白黒クッキリというか「犯人は誰だ!責任者出てこい!」的な内容が多かったのってある意味、自立した個としての考えを棚にあげてとにかく何かにすがりつきたい、悪いやつはこいつだ!って言い切ることで自分の位置を安定させたいっていう不安の現れだったのかもしれない。自戒をこめてそう思う。
なんとなくだけどこれ読んで、とにかく「人間も社会も完全なる悪も完全なる善も存在しない(ようにみえる)」と自分のアタマで考えて、自分の言葉で生きて行こう、それが多分自分にとって良いことだろうと思うことが出来た。
ちょっと面白かったのが、人工中絶に関する文章で「人工中絶は正しいのか」という質問を「人工中絶が正しいとしたらそれはいかなる条件下によるものか?」と言い換えることによって「技術的」に白黒的判断から離れられる、という部分。
そこで、「生命の価値は時間的、空間的、情的距離に依存する」というひとつの仮説が提案されてる。これは非常に解りやすくて適用範囲が広い仮説で、簡単に言うと目の前でニコニコ笑ってる赤ちゃんの生命は大事だと思えても姿が見えない受精卵は大事に思えないっていう極々自然な感覚を定義してくれた。そういう風に「何が何でも人間の生命は大切!中絶反対!」って力むんじゃなくて、アナログに価値は変わっていくものだ、そう思っておいたほうが生きやすいというヒントになった。善悪だけじゃないけどいろんな物の境界って実は濁ってるっていうわけです。
よくよく考えたら受精卵が人間だとしたら、じゃぁ、受精する前の卵子も半分人間だし、それこそオ◯ニーでテッシュに吐き出されてる精子だって半分人間だ。それを一体オレたちは何人殺してきたのかと(ry
あとこんなジョークも。
シー・シェパードのメンバーが
「賢い動物は食べるべきではない」
と口角泡を飛ばして主張していました。それを見ていた人が
「でもお前あまりうまそうじゃないな」
とにかく、今の放射性物質の汚染のことも生ユッケで死んじゃう危険のことも自殺のことも判った上で冷静な大人の理性的なリスクテイカーとして生きて行こう、というのが結論なのかな。
このご時世でいろんな物事の犯人探しに疲れた人は読むといいと思います。オススメ。
ついでにコッチも載せておきます。
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