お昼休みの読書、今日はろう者の起業家が開いた手話が公用語の東大は赤門前のスープカフェのお話、「店内は手話が公用語」っていう本。
さっくりいうと上の2行で終わっちゃうんだけど、本人の経歴みてみると、ろう者ってことを抜きにすると海外放浪で自分探ししてたり、就職してもすぐに転職しちゃってたり、社会に貢献できることを探してたり、でもちゃんと結婚して子供を作ってたりと、昨今の悩めるけどしぶといワカモノとピッタリでなかなか微笑ましい。
聴覚障害者が福祉サービスを受け慣れすぎてて、有料の研修トレーニングに対して「え?無料じゃないの?」って驚いてみたり、なんか受け身であることに慣れ過ぎているっていう普段見られない現実が垣間見れて興味深い。そらそうだよね、なんでも無料にしてくれてたらそう思い込んじゃうよ。
とりあえず色んなエピソードが出てくるんだけど、生まれついてのろう者にとって聞こえることが必ずしも良いことではない。聴者にとっては当たり前のことがろう者にとっては当たり前じゃないし、聞こえないことが当たり前の人にとって聞こえることは当たり前じゃない。その辺は以下に引用するところがズンときた。
聞こえたほうが幸せとは誰が決めたのか。何が幸せで何が不幸なのかは、すべて聴者の考えが基準なのだ。ろう者の基準に照らし合わせてみれば、生まれてきた子がろう者であってもそれは決して不幸ではない。
一方、一番下の子が生まれ、聴者と判明したときは「おめでとう」と言われた。障害がなく生まれてきたことに対するおめでとう、だ。だが私はむしろ逆に、「ろう者にできますか?」と言いたかった。
「ろう者を(人工内耳などを使って)聴者にしてほしい、ろう者のままだと大変だから」という聴者の発言は肯定されて、「私たちはろう者だから、生まれてきた子どももろう者にしてほしい」という発言は否定される。いや、発言自体タブー視されているといえるだろう。だがそれは、何か矛盾していないだろうか。
この辺は自閉症とかセクシャルマイノリティに対する健常者というかマジョリティの無自覚な押し付けと共通する感じ。いつも自分が原点、基準だと思ったら痛い目にあう。そこは常に自覚的でいないとマズイよね。
あと知らなかったんだけど、日本手話って「日本語」ではないのね。
日本手話:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%89%8B%E8%A9%B1
語順がSVOで、つまり主語-動詞-目的語なので要は英語っぽいんだな。文中で「日本手話で対話してると日本語の文章に翻訳するのが大変」みたいな記述があって、そうなのか?!って思ったんだけど、そういう意味から言えば日本手話で対話出来て日本語の文章を書ける人はバイリンガルなんだ。すごいわー。
あと、カフェとしては食べログのコレをどうぞ。
http://tabelog.com/tokyo/A1310/A131004/13135721/
いつか機会があったら行ってみたい。Sign with me。ロゴがけっこうステキ。ちゃんとロゴの意味も解説してくれてる。
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