「反音楽史 さらば、ベートーヴェン」という新潮社さんの文庫を読んでみて、「あー、なんかやたらクラシック音楽が難しそうで楽しくないのはこいつらの仕業だったのか!」的な納得感がハンパない感じで見事に著者の方の主張に賛成したくなる。
単に音楽そのものの構造やら技法の話ではなくて当時の音楽家がどうやって生活していたのか、ドコに行ってナニをしていたのか?をココまであからさまに書いた本が有ったかなぁ。だれがどこの貴族に雇ってもらっていくら貰っていたか?を当時の手紙を文献として検証するとか、とてつもない労力がかかっていそう。
一つの史実に反旗を翻すっていうのはこういう覚悟が居るのかもしれない。それでいて文体はシニカルでも調子よく読ませてくれるので、飽きることがなかった。
新潮社さんの帯もなかなかいい感じ。
結論としては文化全般でイタリアやフランス、イギリスに遅れていたドイツがベートーヴェンという男の登場をきっかけに「よーし!これで今までの遅れを挽回してやるぅ~!」と息巻いて作り上げた虚構の歴史、それが今の今までクラシック音楽をつまらなくしている」ということなんだけど、とにかく調べあげたエピソードが面白い。
そんななか、一番、わははははwwwwって嗤ったのがこの一節。
ベートーヴェンは前世代の音楽家たちが考えも及ばないことを発想していたが、その中で最も重要で、長く後世に影響を及ぼした考え方は、「おれが一番偉い」というものであった。
そしてこれ。
(シューマンは)「形式は精神の容器である。容器が大きくなれば、中に入る精神も大きくならざるを得ない。そして交響曲という用語は器楽の世界で到達し得た最大規模のものを指している」ともいう。
この言葉を聞いていると今後のドイツ音楽の進む道、すなわち重厚長大への道がすでにシューマンによって示されていることがわかる。形が大きければ、より偉大な精神を宿す―宿さねばならぬ―大きさ万歳、といった道はワグナー、ブルックナー、ブラームス、マーラーらに受け継がれ、そのあたりで自己崩壊を起こし、それきり途絶える道である。
なんかもう痛快ですらある。
ということでイタリアンな 脳天気な音楽が大好きなワタクシにはドンピシャの本であった。とにかくベートーヴェンもモーツァルトもここまでdisってくれるとマジで面白い。
学校で習った音楽の時間が苦痛だったっていう人は(大部分だと思うけどw)、読むことをオススメします。
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