前に「君を守りたい」という本を読んで、いたく感心した。あの本は、「いじめは犯罪である」、「加害者の責任を追及したり、更生を促したりするよりもまず必要なのは、被害者を守ることだ」という非常にシンプルなメッセージを送ってくれた。
しかし、この「教室の悪魔」という本に出てくる事例を読むと今の「いじめ」が如何に巧妙かつ残酷になってきているのか、はっきりと理解できる。電車の中で読んでいて気分が悪くなった。マジで。
単に肉体的な苦痛だけではなくメールを使って誹謗中傷をばら撒いたり、自分だけじゃなく家族のありもしない噂を広めたり。テクノロジーがこんなことにも使われていると思うとホントに腹が立つ。やりきれない。
「君を守りたい」の著者は、「いじめの責任はクラス全体ではなくて、あくまで加害者である一部の生徒にある」と書いているが、この本では、「いじめは、一人の被害者とその子を除くクラス全体が加害者になるのである」と書く。
以前のように「一人の被害者」、「少数の加害者」、「その他大勢の傍観者」ではなく「1対残り全て」であると。
その認識がきっと正しいのだろう。でなければ、3章の事例にあるような被害者から加害者に簡単に成り代わる構造は理解が難しい。
この本の5章、つまり最終章がチェックリストになっている。そしてそのリストが最後の最後にちゃんと□に「レ」を付けるような一覧表になっているところは、作者も出版社も今いじめで悩んでいる子供の親だけではなく、加害者になっている子供の親も自分の子供の行動をチェックして、いじめが起こっていないかチェックしてほしい、という強い意思を感じる。なぜなら、いじめが発生しているとすれば、例外無く「あなたの子供は加害者か被害者」だから、だ。
引用したいところはいっぱい有るけど、3章からはここを。
ひとたび、いじめの理由を共有した閉鎖的な集団ができ上がれば、いじめは遊びの様相すら呈してゆく。子ども達はいじめを楽しむようになるのだ。子ども達はどんどん残酷になる。子ども達の柔らかい頭は、大人の思いつかないような残酷ないじめの方法を次々と考え出す。
私達は、子ども達の適応能力の高さは、残酷な環境に対する適応という点でも、大人の創造をはるかに越えていることを知るべきだろう。「どうして子どもがいじめによって自殺するのか」を議論するのではなく、現代の子ども社会のいじめというのが、死に追いやられるほど残酷で陰湿で悪質なのだということを理解すべきである。(99p)
もうひとつ。4章から。
いじめ根絶の取り組みは、子ども達に、悪いことをすれば必ず発覚し、ペナルティを受けるのだという社会のルールを教え、いじめが許されるという歪んだ正義がまかり通っていた子ども社会を、秩序のある社会に立て直すという取り組みである。それは、子どもだけでは決してできない。大人たちの取り組みが必要である。いじめに立ち向かわなくてはならないのは、実は子どもではなく、大人である。(122p)
4章全体が「いじめを解決するための実践ルール」というタイトルでわかるように具体的に何をして、何をしてはならないかを示してある。本当にこの本を小学生高学年から高校生の親に読んで欲しい、使って欲しいという気持ちが現れている。ポプラ社が、一面広告を出した理由がよくわかる。たった、880円の本なのに。
是非、お昼のランチのレベルをちょっと落として、おやつを我慢して、全ての親(特に父親)に買って読んで欲しいと思った。
一応、「君を守りたい」も参考までに置いておこう。
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