半分しか視てないのに感想書くなよと自分の中のもう一人が言ってる。でも感じたことは残しとかないと忘れちゃうぞと言うもう一人も居る、なのでメモっとこう。
一番、驚いたというかやっぱりだったのは文部科学省の課長(?)さんのコメント。参加者から色々突き上げられてちょっと感情的になっていたのかもしれないけど、お役所的対応に終始していた。
「出席停止」(登校停止だったかな)という処分についても、「いじめが発覚したら直ぐに断固としてほぼ停学処分的に長くやれ!そうでないとこの処罰は効果が無い!クラス全体で一人をいじめているんだったら、いじめられている子を除いて全員出席停止にしろ!」というひとがいたけど、「出席停止は処罰じゃありません。あくまで指導の一つです!そこを勘ちがいしないで下さい」とひとり力説してた。でも他の参加者はほとんど「処罰」と考えていたように見えた。つまりこの人(課長さん)は、いじめは犯罪だと思っていない。
参加している若い世代(自分もいじめられたという経験者が多かったように思う)も、「出席停止にしても帰ってきたら絶対に復讐がある」、「それだけでいじめられている子が学校に来れるようになると思いますか?(ボクは思わない)」という意見で必ずしも出席停止を実行することに賛成でなはいという意見が意外と多かった。しかし同じ反対でも大人と子供ではちょっと理由が違うのだ。子供は「そんな軽い処罰では効かない」と。
あと学校というか教師を信用できますか?という問いにネットのアンケートでは6:4ぐらいで「信用できない」という意見が多かったように思う。でも、これは設問がおかしいと思う。「信用できない」と確信している人はそれなりの具体的な事象があってそう思っているんだろうし、「信用したい」というのは一般的に自分の子供を預ける限りはそう思う願望のようなものだろう。なので、事実と願望を比べても意味が無い。ちゃんと訊くのであれば、「学校・教師を信用できないと思ったことはありますか?それはどういうきっかけでしたか?」と訊かないと。
この信用という部分で興味深かったのは、「親と教師はもっと仲良くして欲しい」という反応が子供側にあったこと。この「自分の面倒をみてくれる役割の人」、つまり親と先生が仲が悪いのは良くないと。かなり子供側から見ると平面的というかオンナジぐらいのポジションに見えるんだろう。あと、教師側のコメントをみると「教室というのは、その外側に居る人にはわからない事情があるんだよ。なのでそこ俺たちにまかせとけ!」的な暗黙の思い込みがあって、だから「親が介入するとややこしくなってかなわん」という反応が生まれるんだろう。かといって「もっと地域の力を使いましょう」というフリースクールの人の声もある。ここで、既にかみ合っていない。つまり、どうして教室が特殊なのか?、どうして教師で無いと制御できないのか?という理由がその外に居る人たち(親とか地域の人とか)に明らかにされないので「(いじめがあっても)信用して任せておいてください。学校のことは我われがなんとかします。」と懇願されても納得できない。しかも、ある部分になると「学校では出来ない部分があるので、そこは家庭で」と都合よく切り分けられても困る。
教師は教室全体(つまりいじめる子も含んで全ても子ども)を考えている、親は(いじめられている)自分の子供だけを考えている、そこがまずもってかみ合わない。何よりもいじめられている子供(被害者)を守ることを最優先にするという大原則が共有されていない。加害者へのケアはその次だろう。ましてやクラス(傍観者、というか消極的加害者)のケアは最後でいいはずだ。
不思議なのは、肉体的に傷つけたり、お金を巻き上げたりという一般的には犯罪の範疇の行為が行われているのに、学校で起こったというだけでそれは「いじめ」という緩いレッテルが貼られて、その対応(処罰)が「指導」というものになる、ということにあまり違和感がなさそう、ということ。特に親側にそういう意識があるように思えた。「まだ未完成な人間なのだから、罰を与えるのではなくてしっかり『指導』することで矯正しましょう」と。
ここが文部科学省(というか親も含めて)の最大の錯覚というか誤解だろう。つまり、「善悪の判断が出来ないぐらいの未完成品なのだから、はっきり良いこと悪いことを示す。理由は説明する必要は無い」というのが原則なんじゃないか。
そういう意味では、番組の最後の7分間を使って子供の意見を聞こう、という風にしたのも気持ちはわかるけど、被害者に直接的な要因があっていじめが発生しているわけでは無いという状況の中で当事者(特に被害者)だけに話を聞いても何も変わらないし、解決には向かわない。
結局、この討論に参加していたほとんどの人がいじめる側もいじめられる側もお互い話をすれば分かり合える、と思っているんだろう。不思議なのは、「未完成な人間だからやってしまう」という認識と「未完成でも話せば判る」という認識がどうやったら両立できるんだろうか?ということだ。未完成だからこそハッキリ白黒を示さないといけないと思う。
「うちの子がいじめられて不登校になった。なのにいじめた子は今も学校に通っている。それは不公平だ」という親がいた。でも、「いじめた子の親はとってもいい人なんです。変な人なんかいないんです!」とその母親は言っていた。その一点を見ても、子供というものが未完成で大人からは理解不能なイキモノであると認識出来るはずなのに。
ま、継続して話をするのはいいことだとは思うけど、「どうしてこの交差点では事故が多いのか?」をどんだけ考えて話し合っても何も変えなかったら、相変わらず事故は減らない。何かをまず変えないと。
いじめってすごい最近とりあげられてますよね。
その影響もあって 先日中学からかなり仲のいい友人に「いじめってうちらのときなかったよな」って言ったら、「はたちゃんが知らんだけであったでーーー」って言われてしまい、カナリショックでした。私の知らないトコでそんな事実が・・・
私ってなんて幸せ者だったんだろうとそのとき認識。
そういうことで、私はいじめた側の気持ちも、いじめられた側の気持ちもわかりませんが、「知る」ってコトは重要なのかな?って思いました。加害者、被害者ではなくても。
でもYasuyukiさんのおっしゃる通り、知って、それからどうする?ってのが一番大切なんだなと。
投稿情報: はたちゃん | 2007/03/08 02:53
コメント、どうもです。この手のネタはコメントしずらいですよね。
でも知っておいて欲しいのは、これは学校の外に出たら完璧に犯罪だってことです。それだけは疑いが無い。そして現に子供が死んでいるということ。
僕は、学校がとか教育システムがとか教員がとか批判することにはあんまり関心が無いんですね。大人として何が出来るかに興味がある。そして今の時点で大人として出来ることはまずはその実態を知ることじゃないかなと。そういう意味では番組に出ていた若者たちの意見は興味深かったけど、あまりに当事者過ぎる気がしました。全然、消化できていないような。ま、引き続き、この系のネタをメモとして書いていきますので、お付き合いのほどを。
投稿情報: yasuyuki | 2007/03/08 13:22