やっぱりこの本については、自分のためにメモをしておこう。(やっと最後まで読んだ!)
子供が子供を殺す、または子供が親を殺す、そう言う事件が社会的な問題として注目されることに反応するかのように、「そんな軽い罰では被害者が浮かばれない」とか「少年院じゃなくて刑務所でキッチリお努め!」とか、何も知らないくせに何となく思っていた。実際には例の「Always 三丁目の夕日」の頃が少年による殺人のピークでそこから急激に減少している。つまり、「少年の事件が最近、増えている」というのは事実ではないのだ。ま、子供の数も減ってるので単純には判断出来ないけど。
そして罪を購う場所として少年院と少年刑務所の違いに関しては、本当に眼が覚めるような感覚。つまり、少年刑務所がオトナを扱う大学だとすると少年院は子供を育てる幼稚園なんだと。俄然、少年院の見学に行きたくなって来た。一般人でも見学出来るといいと思うなぁ。これこそ社会見学なのに。
この本の主題、「厳罰化」の裏にある「被害者のことをもっと考えよう」というキブンの更に裏にある「犯した罪と同じぐらいの痛みを与えようぜ!」という応報型の考え方については、裁判所も美辞麗句を並べ立てないで、もっとはっきりと「こんなひでーことしたんだから、世間様がゆるさねぇぜぇ〜〜」って言えと。そう言えば世間様も納得するんじゃねーかと。
ただし、「そんなひでーことしたやつは、それこそ山の中に独りで閉じ込めて反省させろい!」っていうのは感情的にはわかる。でも、それに対しては一番沁みた文章を引用しておこうかな。
「犯罪を犯した少年」が「施設」に入り、一人で黙々と自分の罪に向かい合って反省する、などという構図は絵空事である。「反省」や「更生」は一人で出来るものではない。それは関係の中でしか生まれない。そのためには現実的に「関係の支え」が必要である。
つまりは、本当に反省させるなら、刑務所のように私語禁止ではなく、どんどん色んな人と話をさせて自分の感情や思いと直にふれあわないと、単純作業だけを機械のようにこなして中は何も変わってない、という人間が数年から数十年経つと堀の中から出てくるだけ、という状況になる。現に少年法が厳罰化されてますます少年刑務所行きが増えれば増えるほど、その危険性、つまり再犯という全く誰も救われないことが増える可能性を秘めている。
「反省するため」には直接、その犯罪には直接関係が無いように見える親と子の関係をちゃんと見直して、親も親で変えるところはちゃんと変えようね、それはとっても辛いことかもしれないけど。と教えてくれる。
その章、「どうすれば「非」を認めることができるのか」の最後の最後の文章はこれ。
人間って哀しいドウブツだな、ホントに。「たぶん私は、ずっとあなたに誉められたかったんだと思う」
(『詩集 あか利』第33号 京都医療少年院発行 2006・7月)
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