角田光代さんが書いた「水曜日の神さま」といういろんな雑誌に書いたエッセイを纏めた本を読んだので感想を。
自身がいろんな旅をしてきたというエッセイを最初の方でざぁ〜っと纏めてるんだけど、旅が人生を決定的に変えてしまったという辺りの顛末が丁寧に綴られている。そして若い時の旅といま現在の自分を見比べて「旅」を見つめなおしてるところがイイ感じ。
それと同時に本を読んでいないと間が持たないっていうくらいの活字中毒な具合が手に取るように分かる。
途中から結構、ワカモノ的な言葉が出てきたりすると、こっちも「おぉ!そーだよ、いまのこの時代を生きてるんだよな!」って思えてタノシい。まだ若いもんね。
真ん中くらいに新疆ウィグル自治区のハナシが出てきて「むむ!これはキナ臭いネタなのか?」と身構えて読んでみる。が、ものスゴク美味しそうなお肉と新鮮な野菜たっぷりなお料理のハナシがイッパイで「おぉ〜ここ行ってみてぇ〜!」って思わず呟きそうになった。というかすごく自然が豊かで複数の文化が混じりあった良いところらしいのだ、ウィグルってとこは。街では笑顔がイッパイで良い意味で外人慣れしなてなくてとてもすごしやすそうだ。中国的な威圧的無表情なんてのとは大分違うらしい。
旅行のエッセイとというとひたすらココはどうとかアソコはこうとかの解説になることがあるけど、実際にそんなことを期待してるわけじゃない。そういう意味では個人的にとても良く書けてる「旅をすること」を表現したエッセイだった。
そして最後の方で早くに亡くなってしまった父親や母親との思い出みたいなのが出てくる。ちくちょう、ココで泣けちゃったじゃんか。
定期的に何かに凝る母親について書いた短い文章で、セーターとかキルトとかクッキングとかを大量に作ってしまう母親との思い出という話。
そこをちょっと引用する。
人が死ぬとものが残る。残った物品のなかの故人の形跡は、生きている人を慰めることもあるが、ときに意味もなく苦しめ、悲しませもする。ものを作る人は、だれかを悲しませようとして何かを作り上げるわけでは決してないのに。
私に何かあったらすべて迷うことなく捨ててね、とやはり言い残して、母は亡くなった。その言葉は、使ってほしいのではない、作りたいから作ったのだという言葉と、私のなかで等しく響く。料理にしろ、針仕事にしろ、何かを作り上げる作業というのは、ときとして人を幸福にさせる。シュークリームを食べきれないほど作っていたとき、アランセーターを編んでいたとき、ちいさな端切れをつなぎ合わせてキルトを作っていたとき、母は幸せだったのだと思う。母ではなくて、ひとりの女性として、幸福だったのだ。幸福のお裾分けだから、無理に使うことはないのだと母は言っていたのだろう。
私は今、レース編みもセーターもキルトも、ひとつづつを残して何も持っていない。母の言葉通りみな処分した。胸は痛まなかった。なぜなら私はすでに知っているからだ。それら仕上がった「物品」が母を幸福にしたわけではないのだと。
かつて母が家族のためにせっせと作った料理やお菓子は、当然ながら今はない。けれどそれらは私の内にある。舌が、心がきちんと覚えている。セーターやキルトも同じ。ものがなくても、母が味わった幸福は、私の内にある。私の目は、心は、背を丸め編み針や縫い針を動かしていた母の姿と、そこに流れていた幸福な時間をきちんと知っている。失いようがない。
捨ててしまってね、とさらりと言った母の、その思いやりこそ、私は大切にとっておくべきなのだ。
あぁ、最後のココで号泣した。うちの死んじゃった母親もなんかセーターとかいっぱい作ってくれたなぁって。その思い出を無くさないようにしようって思った。ありがとう。良いエッセイでした。
[いいですね] これ読んでみたい。
涙腺弱いから外では読めないかな(^^;
投稿情報: んちば | 2009/07/25 08:58
う〜ん、最後の方はちょっと外読みはおススメ出来ないかも!>号泣必至!!なので。
ワタシはスタバのトイレに逃げましたww
投稿情報: yasuyuki | 2009/07/26 02:42
[this is good] It is a pity, that now I can not express - I am late for a meeting. I will return - I will necessarily express the opinion.
投稿情報: Rufus Crumpton | 2010/05/19 12:20