こないだ書いた「1冊で知るムスリム」から大分硬派な?エッセイ集。
でも巻末の訳者四方田犬彦さんの後書きと言うには大作すぎる「サイードとパレスチナ問題」が1999年当時のパレスチナ問題を総轄してて、これを読むと、あぁ、中東戦争っていうのはこういうことか!とザックリ理解できる。
あくまでも一人のパレスチナ人としてのエッセイなので、これが事実かどうか(アラファトをボロクソに書いてあるww)は自分で調べて判断しましょう。
しかし「悲嘆の普遍性のなかのふたつの民族」というエッセイで、ホロコーストという歴史をパレスチナへのユダヤ人の移住のために巧妙に利用してきたのではないかという考察がなんともリアリティがあって恐ろしい。ちょっと引用する。
アラブ世界に生きるアラブ人と、西洋に住むアラブ人との間でもっとも大きな違いとは、後者が日常的に、反ユダヤ主義と大量虐殺というユダヤ人の体験に対して、直面を強いられているという事実である。(117p)
アメリカのユダヤ人社会では、ヨーロッパで起きたこともあって、ホロコーストの恐怖はいくぶん軽減されてはいるものの、たいそう熱心に研究されたり、説明されたりしている。たとえばワシントンが、場所としてはアメリカ先住民とアフリカ系奴隷の大量殺人こそ追悼すべきところであるにもかかわらず、それ以上に大掛かりなホロコースト博物館の中心であることは、記しておくべきだろう。(119p)
イスラエル側でもパレスチナ側でも、イスラエルの残虐行為を免罪するためや、ホロコーストそのものをまったくつまらない事件、いやさらにいえば納得のいかない事件として決着づけるために、ホロコーストをまさに利用しているのではないだろうか。シオニズムは誰の助けにもならない。かつてオスカー・ワイルドがいったように、シオニストはあらゆるものの値段は知っていても、そのどれについても、価値を知らない者をいう。(123p)
わたしがどんな形であれ努力したいのは、次の2点に尽きる。すなわち、1.パレスチナ人への迫害がイスラエルのユダヤ人が現実的に否定できない形で、ホロコーストの永遠の帰結であるとみなすこと。2,同時に彼らに向かって、自分たちが1948年以来パレスチナ人に対して行なってきた仕打ちを認知するように認めること。これは、パレスチナ人として、イスラエルのユダヤ人に対して、認識と賠償を求めるということである。ただしその際に、彼らの苦難と大量殺人の歴史が損なわれることがあってはならない。(125p)
そして(多くのリベラルなシオニストがそうであるように)、もし過去を忘れて、二つの分離国家を築こうなどと口にすることは、いかなる意味でも受け入れがたいことだ。過去を忘れることが、ホロコーストのユダヤ人の記憶のなかで侮辱であればあるほど、イスラエル側の手で土地を奪われ続けているパレスチナ人にとってもそれはひとしく侮辱なのである。(129p)
ちょっと引用が長かったwごめんなさい。まだ、とてもこの状況をまとめられるほど頭の中が整理されていないというのがワタクシクオリティw
その他にもオスロ協定を徹底的に批判する辺りは四方田さんの筆にも思わず力が入ってる、というぐらいの迫力がある。なるほど、と。
しかしエジプトの問題とかも考えるとイスラエルとパレスチナって関係だけじゃなくてあの地域のことをいろいろ知っておいたほうがイイと思うわけです。
ということで以前書いた戦争に関する記事もここにメモっておく。こっちはお気楽な感想文です、はい。
「生活の中の戦争」について考えた。
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