「いじめ論の大罪」っていう本を読んだ。で、今までの自分がわかってなかった大きな間違いに気付かせてくれた。素晴らしい。いい歳こいて自分の過ちに気が付くっていいことだ。
サブタイトル、『なぜ同じ過ちを繰り返すのか?』にあるように体罰やいじめによる被害者が出るたびに「いじめをなくそう!」「教育がいま荒廃している!」というメディアや政治家の発想が如何に間違っているのか?を検証する本だった。
(教育委員会も学校の現場も教師も)「学校にいじめはあってはならない」と信じ込んでいる。しすて双方ともに、「いじめは起こらないようにできる」と思っている。ところがいじめは発生する(これはかならず発生するのだ)。
これまでは、「いじめjは学校の外の常識に照らしあわせてみれば「犯罪」でしかない。だったらその常識(法律)を学校に持ち込んで罰するなり対応すべきだ」と考えていたこともあって、この本の主張、子どもはまだ一人前の理性的主体ではないのだから、殺人などの行為は別にして)犯罪とみなされるべきではない、というのが、至極当たり前のことなんだけど、ようやく気がついたって感じ。
そうなんだよね。子どもは未成熟であるからこそ学校という守られた組織というか容れ物に入れて「社会で生きていける理性的主体」として練り上げられないといけない。そしてそのためには論理や常識だけではなくて文化やら伝統という無形のモノを使ってトレーニングする。だから教師のいうことが必ずしも「論理的に正しい」必要は無いのかもしれない。自分が学生だった時にはそれが無性に腹立たしかったけど。
理性的主体になるためには「正しいこと」だけど教えてもダメ。社会には正しいことばっかりじゃないから。
学校でいいことだけを教えることはできないし、いいことだけを学んだ子どもは社会的に自己実現するちからを持つことはむずかしい。片面的な人間になる。社会にも貢献できない。むしろ、マイナス的なものを理解すればするほど、プラス的なものの必要性に到達できるのではないだろうか。
子どもは自ら学ぼうとしなければ教えられても学ぶことはできない。教師がたくさん知識を注げば注いだだけ受け入れるわけではない。つまり、子どもは知識を入れる革袋ではない。教師の思うとおりにはならない。それぞれに自己の意志や意識を持つ知的生命体であることを重視すべきである。
そしてその主体がぶつかり合うことから「いじめ」が発生することは避けられない、と。
あと、「いじめ」の原因を解明することは加害者、被害者ともに主観であるがゆえに難しい、と。そのためには原因解明よりも「状況の改善」に力を注ぐべき、というのは現場に居た経験から出てきた発想だろなぁ。
本の後半の部分は「主要ないじめ論を検証する」として尾木ママと橋下市長、宮台真司、内藤朝雄、『教室の悪魔』、『友だち地獄』を例に挙げて、問題点や矛盾を解説する。
その中で昔読んでグサグサきた「教室の悪魔」の例では、中で出てくる事例の対応については素晴らしいと褒めるものの、アレは僥倖だったと。滅多に無い成功例だったんだよと。世の中に明確な成功もなければ失敗もない。そういう意味では「滅多にない大成功」を例に挙げて「みんな、こういう風に出来るんですよ!」と宣伝するのは確かに危ういのかもしれない。
いやぁ、ホントにまだ消化出来てないけど、何度も読み返してじんわり理解して血と肉になるようにイロイロ考えたい。キツかったけど、良い本でした。今の教師ってダメだよねって思ってる人にまず読んで貰いたい。(それはワタシですww)
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