これまでいじめに関する本を結構読んできて、こども同士の力関係とか先生の無力感とかを「なるほどな」とわかったようなつもりになってきたんだけど、どちらかと言うと、「教師ってのはタイヘンな職業だな」と擁護する感覚があった。
でもこの本を読んで、教師、特に公立の教師は、全く、いいですか、全くですよ全く、客観的に評価されるシステムが無いと言うことがわかった。しかも免許も一回とってしまえば、生涯有効で実績を評価されることも無くクビにもならない。校長には人事権がなく、教育委員会も日教組との癒着というかなれ合いの結果、動かない。そう、どんなに親があの先生を外してくれと懇願してもそれは無理な相談なのだ。
そしてその教育委員会という存在をかなり赤裸々に語ってくれる。本の中はちょっと漢字が多くて読み辛い文章になってるかもしれないけど。
その中で全国共通の学力テストに反対している愛知県犬山市の教育委員会のエピソードほど、この「教師」と「教育委員会」という異様な構図を物語るものはないんじゃないか。全国共通の学力テストを拒否する理由が、表向き「教育の平等を損なう」と反対しつつ、実際には教える側の評価、つまり教師の評価に繋がる、それはマズいと。
一体、その教育委員会というのは何サマなのか?共通学力テストを実施することを選挙の公約として掲げた市長が当選して、要は民意を代表しているはずなのに、それを実施しない。かと言って辞任もせずに居座る。一体、どこの独立国家だと。そして「日教組の組員が5人も居れば、70人程度の教職員会議は牛耳れる」(126p)というまさにやりたい放題。なんのための、誰のための学校かと。
これまで塾というものをあんまり肯定的には考えていなかったけど、もしもこの学校と教師、そして教育委員会の実態がそのままであるなら、塾で勉強させることが必要なんだと考えるしかない。もうある意味、学力を付けるための本当のサービスを提供してくれるのは学習塾なのだろう。
この本の凄いところは、じゃあどうしたら良いんだろうということをキチンと提案していること。教育バウチャー制という教育を受ける側、つまり生徒とその保護者がどの教師のクラスを受けるのか自分で選べる制度を創ることによって、生徒が積極的に教師を評価し、結果的に教育の質を高めることができる、という制度。
そして、学校を自由に選択出来る学校選択制と保護者、生徒、校長がちゃんと教師を評価し、それを公表する教員評価制、この3つが揃って初めて学習する側に学校の主体を戻すことが出来ると。
批判のしっぱなしではなく、ちゃんと具体的な提案があるところに単なる評論ではない迫力を感じる。
99pにある「受信機に徹する」という章からの引用。
教師が保護者や児童生徒などユーザーの要望や要求を、自分たちの教育指導の不十分な点を改善するための反省材料にしようという意識などまるでないのは、自分たちはお客の期待に応えたいという気持ちなどもっていないからである。また、教育は、教師が正しいと思うことを押し付けるものだと心得て、学習者にたいしてサービス精神のカケラもないから、ホスピタリティ(分け隔てなく大切にする気持ち)をもつことなどできない。
で、低学年の頃は「この問題わかる人!」という教師の質問に「はい!はい!」と元気に手が挙がるのに高学年になると皆無になる。そして講師が困るような質問をすることを段々しなくなる。その理由は「本質的に教師のプライドを傷つけても得るものはない」ということ、つまり「教えてやる」ことをありがたく拝聴することを常に求められていることをカラダで覚えると言うことだろう。
自分自身の経験でも、高校の数学の問題に誤植(というか書き間違い)があり、その設問ではどうやっても正しい答えは出ない、と言う試験問題に対して「先生、これはここの数字がこうなってるから問題自体が間違ってるよね!だから、正しい答えは、『問題が間違っているから正解は無い』だよね!そう書いたから◯ください!」って試験後、即数学の教師にねじ込んだら、ものすご〜くイヤな顔をして「・・・・お前の言ってることは正しいが、本質的には問題を訂正して、チャンと答えを出したA君のほうが正しい。だからお前の◯は△だ。A君は◯。」なんてことがあった。その瞬間、オレはこの教師のプライドをもの凄く傷つけたんだろうなぁ、と今になって理解できた。
そして221pの「選ぶことは、自立への第一歩」という章からもうひとつ。
「学んで・育つ」、そして「師を超える」。当たり前のように思ってたけど、良いことばだなぁ。これまでに日本の教育制度は、子どもたちの自立をうながすようなシステムにはなっていない。(中略)そのことが学びのかたちにも影響を与えている。教師自身も「教えて・育てる」ことに固執するから、「学んで・育つ」という方向に切り替わる契機がなかなかつかめない。学びの理想の姿は、「師を超える」ところにある。その意味では、教師とはつねに教え子に否定され、乗り越えられる存在であるという覚悟をもつ必要がある。
ということで、うちのちびっこさん、来年、小学校です。悩みは多い。はぁ。
国として国家の構成員であるところの国民をまともに育てる気が全然ないってのがヤバイ。
狭い国土に1億何千万人いるから勝ち抜いたヤツだけでとりあえずやってける時代じゃねーよってのにねー。
投稿情報: コーノ | 2007/10/20 14:57
コーノさん、どーもですー。なんですかね、この子どもは単なるスポンジ、こっちの都合のイイようにテキトーに色付けとけや!的な自分のことしか考えていない輩=教師たちは。
あ、勿論、熱心な教師も居るとは思いますけどね。ただ、「奇跡的な個人」を期待するとシステムが出来上がらないじゃないですか。だから、民間人校長もシステムのサポートが無いから、ダメダメなわけで。
投稿情報: yasuyuki | 2007/10/20 15:10
「でもしか」って言葉はワシらが子供の頃からあったわけだから、あの頃にキッチリ公立+地方公務員の既得権益化をストップしとけばよかったのに、と今言っても始まらないけど、そんな教師を育てた親もいるわけだし、イマドキの「低モラル」な親を育てた親もいるわけだし、学校教育だってそういう日本のひとつの結果だと思ったりいたします。「自分が子供の頃これがイヤだったからこういう教育はしない」で横並び総オチこぼれのゆとりになっちゃうようなナイーブなオコチャマ先導型教育に対してなんらかの反動(の兆し)はあると思いますけど、それは国家と既得権益のgdgdな戦いの外にあるんじゃないでしょうかねぇ。
投稿情報: コーノ | 2007/10/21 04:11