しかしVoxのなかだけならまだしも記事のURLが長いと不具合も出てきますな。そんなときはコーノメソッドで。
(注:最初に英語でタイトル付けてから保存、もう一回編集して日本語タイトルに変える、というスバラしいメソッド)
ということでまだ本を全部読んでもないのにこれを記事にしてみる。当然、英字のタイトルは、5-7-5。
なんでか?というとこんな文章にピンッと来たから。
短歌は抒情、俳句は写生、そして川柳のオリジナリティは何かと問われると、私は「批評」と即座に答える。批評は、社会批評、人生批評、自己批評と幅広いが、その批評精神があってこそ川柳は文芸として屹立する。
そして「時事」というマクラコトバを付けないと「時事川柳」が作れないという手練の作者のバカ正直なコメントに対して
むしろ意識せず日常の営為としての創作に社会が詠みこまれているのが正常なのである。いまの世の中、時事にかかわらずに生きて行けると思うほうがおかしいのではないか。
むしろ努めて時事に無関心を装って、私小説の世界での類型的作品を生産しつづけることにムリがあるのではと思う。
”いま”を詠む。ということを基本理念とする限り時事句は避けて通れない。たとえ迷路であっても、そこを通り抜けないことには文芸としての川柳に未来はないと言ってよい。
とまで冒頭のほうでガツっと宣言されたら、なんかお調子モンが一句ひねってなんて粋な場面、ではもうない。
実は、これに反応したわけはもう一つあって例の聖火リレーが物凄いことになっているときに、たまたま観たYouTubeで、リレーを辞退したイギリスのコメディエンヌのインタビューにこんなくだりがあったから。(うろ覚えなのでかなりイイ加減です)
インタビュアー:「アスリートたちの立場に立てば、スポーツに政治を持ち込むな!という批判も有りますが。」
コメディエンヌ:「私たちは産まれてきたその瞬間から,空気のように政治に触れています。政治が全く関わっていない生活,社会というものはありません。ですから、政治がスポーツに相対するのではなく、政治の上にスポーツという小さな空間が存在しているのです。オリンピックも同じです。私たちの空気が冒されようとしているのを見逃すわけにはいきません。」(う〜ん、文字にしてみると大分違うような。でも意図していることはこういうことだったと。)
ということで「今頃、時事に関わらないでノホホンとしてるのがオカシイ」という部分に微妙に呼応してしまってます、はい。「ボクのリレーのときにはへんなことしないでよぉん」って言ってた芸人にも聴かせてあげたい。
そして”句を詠む”ためにはリズムが大事だ、それを忘れてはイケナイ、ということで著者が出したサンプルがこれだ。
北京上海快晴銃殺刑日和
天安門事件を詠んだ句だそうだ。で、ここまで読んでみて、どうやら川柳つーのはスゴイことになっているらしいのは良く判った。
ということでこれからちゃんと読みますよ、という自分のためのメモ。まだ100pも読んでないしorz
[いいですね]
昔ウチの事務所界隈で川柳をとにかくいっぱいこさえるという妙な仕事を受けたとき全員の日常会話が完全川柳化して、そのまま事情を知らない人と会うと「その五七五!うっとうしい!やめれ!」ってさんざん言われたなぁ、、、
そういえば糸井重里が文春でコピー塾やってたときに「コピーライティングは川柳じゃないんですから」って叫んでた=川柳的コピーの応募がすごく多かったってこともあった。
時事些事コピー@五七五みたいなもんかも=川柳。
投稿情報: コーノ | 2008/05/01 11:30
ま、なんにしろ五七五が日本語にとって座りのいいリズムであることだけは確か。
9歳から90歳まで応募があるんだそうな、投稿川柳モノ。でも数が減っててちょっと危機感上昇中らしい。
投稿情報: yasuyuki | 2008/05/01 11:43