3年前の記事にリンクの修正をしました。だから「去年〜」というのは、2007年の記事を指しています。そんな前の記事を修正するのってどうなの?って思ったけど自分が書いたリンクが相変わらず今は無くなってしまったVoxのURLを指してるのがどうしても気に入らなくて。
内容はそのままです。以上、追記終わり。
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去年の3月に「夜回り先生」こと水谷修さんの講演会を聴いて思ったことを記事にした。その時に感じた「なんか、こう、常識外れド聖人/偉人」みたいな印象。そして何とも言えないもやもやとした感覚、それは嫌悪感だったんだと判った。それがムネヤケみたいに残ったままだったのを、この本を読むことで思い出しそしてスッキリさせてくれたのだった。
色んな角度から今の学校と教育、親と子供、を巡る事象を歴史を振り返りながら分析してくれる。その中で第6章、「成長しなくなった若者をめぐってー速水敏彦、水谷修を批判するー」というところが上に書いた「ムネヤケがスッキリした」原因。
あの後味の悪さは何だったのか?結論から言えば、「ワルいのは全部大人(教師や親)で子供は悪くない」、「子供は花の種なので水さえあげれば立派に花を咲かせる」という部分だったのだ。講演の中でも何度も似たような言い回しが出てきた。そこだったんだ、あの気持ち悪さは。
「夜回り先生」が実践している行為については、この本の著者の諏訪哲二さんも「圧倒される」という風にほかに比べるものが無いくらいに評価している。ただし、その本質の部分が「語り」のところから透けて見えている。それは、「子供は悪くない=本質的に良いイキモノ」という意見の裏に潜む「大人が悪いから(悪い影響を与えてしまうことで)子供が悪くなった=子供には主体的な意思が無い、もしくは弱い」という、ものスゴく子供を、ある意味、差別(区別と言ったほうが良いかな)しているのが彼の本質なんだろう。
冗談っぽくこの本の中でも紹介されている四国での講演会のあとで夜回りに出た時のエピソードがそれを物語っている。
210pから引用。
この日の夜回りは、酔っぱらった女性を介抱し保護する夜回りでした。何人かの女性の連れの上司たちとは言い合いになりました。「何でこんなふうになるまで飲ませるのか」という私のことばに、「勝手に飲んで、こうなっただけ・・。君に何か言われる筋合いはない」との答え・・・。私は哀しくなりました。お酒も、立派な薬物です(中略)できれば、酒のない忘年会をやってほしいのですが、(後略)
つまり、大人であっても酒に酔ってはいけないのだと。しかも、酔ってしまった人の意思を全く認めずに、あくまで誰かにそそのかされたのだ、と仮定してしまう。被害者と見るや否やあっという間に誰が悪者か?を特定してしまう。
それと同じ構図が、そのまま「悪い教師、親」と「純真無垢な子供」に当てはめられ、そして被害者はあくまで被害者であって、主体性はなかったということになる。だから「(罪を犯しても)いいんだよ」と子供=被害者を無限に許す薆に溢れるような言葉の裏には「大人が干渉しなければ、まっすぐ育って立派な人間になるはずだったのに大人に悪くさせられた」んだから、「(何にも出来なかった、考えられなかった)君は悪くないよ」という結論におちついてしまう。だからオレは許してあげるよと。君には罪はないよと。つまり、どんだけ主体性が無いんだよ!っていうこと。果たしてそうか?そんなものなのか?と分析してくれる。
こういう風に分解してくれると「夜回り先生」の語りを聴いた後の何とも言えない違和感がやっと理解出来た。子供の主体性をまったく無視して被害者扱いするのは、やはり間違っていると思う。
で、実際にはまだ全部読み切っていないのにとりあえず自分のメモとして書いておこうと思ったもう一つのだいじなこと、それはこういうことだ。152pから、引用のまた引用をば。
<引用者補・近代的個人である>「わたし」になるというのは、わたしたちが個人としてのさまざまな私的可能性を失って、社会の一般的な秩序のなかにじぶんをうまく挿入していくことにほかならない。『じぶん・この不思議な存在』講談社現代新書、1996
子供が社会に生きていく人間として育つためには、動物的な自由奔放さを捨てて無理にでもしつけられる必要がある、ということ。社会に適合出来るように子供の時に訓練されなければ、この社会で生きてはゆけないんだということをかつて教えてくれた学校が権威を失ってしまっている。昔のような地域の人間が子供をみてくれる、なんて状況は有り得ない。そして親はまるで学校をレストランのように位置づけて我が子をお客として待遇するように求め、教師は疲れ果てる。子供を取り巻く問題はシンプルでは無いし、解決にも時間がかかるんだろう。だからといって途方に暮れてて良いわけではないけど。
でも、少なくとも「子供が自由に自分で考えて決める」なんてのが正解ではないことはだけは確かだと確信出来ただけでもこれを読んだ意味は有ったのかな。
前に書いた記事の最後のほうに引用した文章が意味してたことはこういうことだったんだと眼からウロコ状態。
自分のためにここにもメモしておこう。
前に読んだ「家族力」とかとも通じる考え方だなぁと思った。インドの諺にこんなのがあるといって紹介するのがこれ。
「子供は、3歳までは、家の王様
7歳から12歳までは、家の奴隷
15歳を過ぎたら、家族の友達」なるほどねぇ。さすがにどこに行っても人間を育てるというのは普遍的なもんだなと思う。
前に読んだ斉藤学さんの「男の勘ちがい」という本にあった親の仕事という部分、
親の子育ての仕事の中には、規範の受け入れということが含まれていて、それをわかりやすく言おうとして私は「子どもに欲求不満を起こさせる(怒らせる)仕 事」と呼んでいる。「我慢させる仕事」と言ってもいい。この仕事は「子どもを抱く仕事」や「子どもと別れる仕事」と並んで親の三大仕事のひとつであると思 う。
あ〜、最後まで読まないと。
[いいですね]
ここまで読んだだけでも十分 I agree with you の世界感ですね。でも諏訪 哲二さんの本読んでみたくなりました。
yasuyukiさんもR画伯の親として、考える事多いですよね。僕も娘持つ親として切実な課題ですね。
投稿情報: ちかぱぱ0723 | 2008/01/19 08:10
[いいですね] 同じく!私も激しくアグリまくりです。
投稿情報: herorin | 2008/01/20 00:57
いまは24の大学生で、来年から社会人になりますが、16歳の頃に不登校になって中退しました。その頃はたしか、真剣十代しゃべり場もやっていてそれに登場する人に共感したのを覚えています。その後19歳のときに水谷さんの講演をテレビで見たんですが、なんかすごく救われた気持ちになりました。(16歳くらいに見たと思っていたのですが今見たら2004年に放送した番組らしいので自分の記憶違いですね。)
しばらく水谷さんのことは忘れていたのですが、かれこれ2年ほど前ですか水谷さんの番組の再放送かなにかをやっていたのを見ました。当時見たものと同じ内容のものです。その時にものすごく違和感を覚えましたね。
あれ?こんな人だったっけ?と思ってしまいました。大人になった自分から見ると妙に大人に厳しすぎて、子供は甘やかしすぎていると感じるのです。子供の頃にはそんな印象は持たずにただ共感していました。
ひったくりしておばあちゃんを転倒させて殺してしまった少年のエピソードを聞きました。しかしその少年よりも未成年に飲酒をゆるした大人に対しての方に厳しい対応のように思います。
図書館で借りた本なので今手元になく、正確な記述は書けませんが、ゼミかなんかの未成年に飲酒をゆるしてしまって泥酔していたのを見た水谷さんがその担当の教授を廃業させた、というようなことを自慢げに書いてあったと思います。(このエピソードはうろ覚えなので、細かい部分は違うかもしれません。)
それと「大人はいくら困っても自分はかまわない」、ということも書いてありました。この記述を見たときは首をかしげましたね。
この人は話し方が本当にうまいんですよね。今聞いてもそのトークに引き込まれていってしまいます。以前水谷さんと似たようなことをした別の人間が夕方の番組で特集されていましたが、その人には水谷さんのようなカリスマ性は感じずむしろ嫌悪感がほとんどでしたね。話し方もその大きな理由です。
水谷さんをおおっぴらに批判することは難しいでしょうね。本人は本当に命がけで社会のことを思って行動しているわけですし、支援者も多い。ちょっと批判すると嫉妬しているんだと言われてしまいますから。若いやんちゃな人間に特に好かれてますから、下手に批判したら身の危険だってあるかもしれません。(考えすぎかもしれませんが)
いいんだよ。と言って過去のことを許すのが口癖で今までで一度も生徒を叱ったことがないことが自慢らしいのですが、悪いことをしたら叱ってやるのが大人だと思うんですよね。ましてや殺人などを犯していいんだよで済むはずがない。一生償っても償いきれない罪を犯したんだと教えてやるべきです。中途半端に水谷さんをマネして子供を甘やかすだけの大人が増えたら本当に怖いと思いますね。
投稿情報: 三沢さん | 2008/12/11 07:43
上記、三沢氏の意見に一言
>いいんだよ。と言って過去のことを許すのが口癖で
>悪いことをしたら叱ってやるのが大人だと思うんですよね
水谷先生はちゃんと叱ってますよね?
甘やかしてもいないし。
叱るというか教え諭すことは何度も行っていると思います。
水谷先生のいう叱るとは
「一方的で頭ごなしに叱りつけ、抑えつけて退治し始末する」
という意味だと先生の発言などから判断できます。
そんな風にはしてないという意味ですよ。
その上で、過去に縛られたり自分を責めてばかりで前に踏み出せない若者が
また成長できるように「いいんだよ」と言って励まされているのだと思います。
「叱る」や「いいんだよ」でもそうですが、言葉には背景があります。
叱らずに甘やかしているわけでは決してない。
犯罪を許したいから、いいんだよと言っているのではない。
投稿情報: Yuko008 | 2012/03/02 02:34